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2010年6月7日更新

ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」"Dubliners"について―2―
“An Encounter”「出逢い」「ある出会い」「出会い」

小説「ダブリンの市民」/ジェイムズ・ジョイス 著・結城英雄 翻訳〜「出逢い」
小説「ダブリンの人びと」/ジェイムズ・ジョイス 著・米本義孝 翻訳〜「ある出会い」
小説「ダブリナーズ」/ジェイムズ・ジョイス 著・柳瀬尚紀 翻訳〜「出会い」


『リーオは何故その朝、現れなかったのか?』


 “出会い”とは他者の姿に仮託された自我との出会いである。だから小さな旅の中で出会う人格は複数でも、真の出会いは単数つまり自分自身ひとりなのである―“An Encounter”。
 “僕”は、いわゆる“自分探し”の小さな旅に出る。でも最初から“本当の自分を見つけたい”とか思って意気込んでいたわけではない。自分に欠けている何か凄そうなものを探りに行くのが本来の目的だったのである。無い物ねだり(逃避)の旅に出たわけだ。何か違う自分になれるのではないか、いってみるなら“他人探し”の旅のはずだったのだ。
 “僕”の心の中に芽生えた欲望や志向、性向、憧れを“他人”になすりつけるように描いてみせている。主人公の“僕”はまるで架空の存在のように浮遊している。架空の“僕”がいろいろな人格に姿を変えて現われその自我の内実(欲望、志向)が読者の前にあきらかになる。少年期に自我に目覚めるというのはどういうことなのか、これ以上の迫真性を持って描けるものではない。これは自我の内実が浮かび上がる過程を小さな旅になぞらえた小説なのだ。
 この話は「アメリカ大西部を持ちこんだのはジョウ・ディロンだった」で始まる。ディロンの集めていた古雑誌によってもたらされた遠い異国アメリカの野蛮なまでに力強い強烈なイメージ。なんか凄いものが遠くにあるらしい。しかしそのイメージを追って毎日夕方繰り広げられる「インディアンの戦」ごっこの、「勝負はことごとくジョウ・ディロンの戦勝の踊りで幕を閉じた」そのディロンには「しっとりとした匂いがしみわたっ」た穏やかで平和な家庭があり、尚かつ彼は「司祭の道に召されている」…すべてに優位な位置に立つジョウ・ディロンを見て“僕”は羨望と憧れの感情が混ざった「おさまらない気分」になる。
 ところがジョウ・ディロンには“ふとっちょ”で“ぶきっちょ”の弟リーオ・ディロンがいる。“僕”の視点からディロン兄弟を見ると、“僕”は弟リーオの側だ。リーオのことは“僕”の敗北者仲間のように感じられたに違いない。我が身の醜い鏡のごとく映っているのだ。リーオ・ディロンは学校で授業中に古雑誌をポケットにしのばせているのを見つかり叱責される。「僕にとっての大西部の栄光はひどく色褪せた。そしてリーオ・ディロンのうろたえたぷっくら顔が、僕の良心の一つを呼びさます」まるで自分自身が叱責され蔑められたような気になって、子どもの間で繰り広げられた虚構の世界が空々しく無意味なものに感じられる。「本物の冒険が自分にも起こってほしくなった」「外へ出て探さなければならない」ここに自分の真の人生はない。外界に目を向けようという自覚的な意識の芽生える瞬間である。しかし、実際には「僕は一日だけ学校生活の退屈から抜け出そうと決心」したに過ぎない。
 そしてリーオと仲間のマホニーと“僕”の三人が揃って学校をさぼる計画を立てる。ここで、唐突にマホニーという仲間が登場する。どうも話がおかしい。マホニーは姉に、リーオは兄にさぼっている間のアリバイづくりを依頼することになるのだが、“僕”のアリバイ工作についてはひとことも触れられていない。そもそも“僕”の家族はどうなってるのか。“僕”は「姉妹」の“僕”以上に素性の知れない少年である。「姉妹」と同じく主人公の“僕”には名前がない。また、二人から六ペンスずつ集めたのに自分の六ペンスはただ見せるだけ。まるで落語の“時そば”のようにペテンにでもかけているみたいに聞こえる。ここまで読み進むとだんだんと“僕”の存在があいまいで胡散臭くなってくる。読者の前に霧のようなものが現われ、そこにいるのが二人のような、三人のような不思議な感覚になる。
 こういうふうに考えたい。子どもである“僕”はまだ他者と自我が混在している。“僕”の意識の仲ではリーオは“僕”のネガティブな分身、マホニーは“僕”が新たに造り出したポジティブな分身なのだと。「僕は一日だけ学校生活の退屈から抜け出そうと決心した」とある。決心したのは“僕”だ。冒険を代行してくれる旅の「相棒」が、“僕”の頼れるポジティブな分身であるマホニーなのだ。だから“愚図兵衛リーオ”は、仲間はずれにしてはじかれてよい。朝、現れなかったのは“僕”の旅に参加する資格がリーオになかったのからである。“僕”の中にあるリーオな“僕”は置いてきぼりにしていくのだ。[現実の世界で起こったことを想像すれば、おそらくジョウ・ディロンの性格からすると、リーオのサボリを手伝うはずがないので学校をサボれなかったのだろう。マホニーという同級生はジョウ・ディロンに似た強そうな性格にみえた。この子といっしょなら心強い。安心して冒険できると思ったのだろう]
 実際マホニーは、インデアンの真似をしてスラングを使いリーオを揶揄するなど、その行動や所作がまるでジョウ・ディロンのようだ。だが“僕”の中にでっちあげたもうひとりの自分である、このマホニーというキャラクターは、単にジョウ・ディロンのイメージの模倣でしかない。この時点では“僕”のジョウ・ディロンに対する憧れがマホニーに重ね合わされているに過ぎないである。[現実には本来ジョウ・ディロンとは別人格のマホニーに自分の理想を仮託しているということ。お門違いの妙な期待をかけているのだ]
 “僕”たちは波止場につき白い帆船を目にして海外渡航を夢見るが、この異国船の船尾に記された判読できない文字にぶちあたって気分はすぐに後退してしまったようだ。現実にリアルな異国と間近に接してみて未知の国に対する憧れより恐怖心が頭をもたげたのだ。“僕”は引き返して船乗りの中で「誰か緑色の目をしていないか」探しだす。緑色の目をした自国人の面影を追っているのだ。これでは“僕”は早くもホームシック状態ではないか。
 ひといきつくと早速、“お帰りモード”に陥る。
「帰りは汽車にしないかともちかけると、いくぶん元気を取り戻した。太陽は雲のかげに隠れてしまい、僕らにはしょぼくれた思いと食料の食べかすだけが残った」
 意気込みはすっかり萎んでしまう。
 そこで「言葉も交わさずに堤に寝ころがっていると、野原の向うの外れから一人の男がこっちへ来る」
 先に進むことを躊躇し、後退した“僕”の前に登場したこの男のイメージは“僕”がこのまま流されるままに大人になること、老いることに対する恐れの現われである。未来の“僕”が、現在の“僕”に向って激白しているような次の言葉がそれを象徴している。「子供に戻れるものならなにを犠牲にしたってかまわない」
 この男は“僕”の心の中にできたおできが醜く肥大化したモンスターである。男は最初、大人になることの喜びを淡々と語る。しかしそれは尊大で型にはまった言い方に終始している。ほとばしる生気というにはほど遠く、欲望だけが先行した大人の醜さが目立ってくる。“僕”はもはや男が何をしているのか目にする勇気を失うが、マホニーの口を借りて描かれた男はもはや「変態爺」と化している。“僕”がこのまま大人になった時の得体の知れない恐ろしいイメージがどんどんと増長してついに見るに耐えないものになったのだ。
 闇に引きずりこむような誘惑の言葉を重ねるこの男は、「姉妹」におけるフリン神父に、さらにはコッターじいさんにも重なる。つまりは“こうなりたくないけどこうなってしまうかもしれない自分”の姿である。恐怖心が最高潮に達した“僕”はマホニーをマーフィーと名乗らせ、自らをスミスと名乗り別人のふりをしようとする。ついに出た!自己からの逃避である。
 “僕”は、深い孤独の中で自己と格闘することの底知れぬ恐ろしさを体験したわけである。「マーフィー!」恥ずかしくも2度叫ぶことで初めて心の底から他者を強く求めることになる。「改悛の思いに駆られた」のは「内心」に抱いた自己や他者のイメージに縛られていたこれまでの自由のない生き方に対してである。“僕”はこの時、実在する確かな他者の発見によりはじめて真の自己を見いだすにいたったのだ。まさに自我との“出会い”の瞬間である。

―柳瀬訳の新潮文庫版には“僕”がめざしたピジョンハウスの写真が掲載されている。巻末の注釈では煙突の高さは200mあるそうだから普段からこ煙突は見えていて、その根元はどうなっているのか気になっていたに違いない。まさに古雑誌から壮大なイメージを膨らませていたアメリカ「大西部」と重なる存在なのである。だからここをめざしたのだ。
―冒険に出かける前の晩に「その夜は寝つきが悪かった」とあるから、朝起きてからの小さな旅の話をすべて“僕”の夢の中の出来事と解釈することも大いに可能である。
―“男”はリーオが大人になった姿でもある。仲間はずれにされたリーオが大人になって復讐しにきたわけだ。だから鞭打ちにこだわっているのだ。彼はマホニーがいなくなりひとりになった“僕”に牙をむき始める。
―米本訳の注釈によると、マーフィーはアイルランドに多い名で、スミスはアングロサクソン系に多いという。そういわれると自国を捨て海外に逃避したいという願望の現われにも聞こえる。また一方、この物語が単に一個人の自我の問題に留まらずダブリンの、そしてアイルランドの人々のアイデンテティにも結びついていることを暗に示しているのだろう。
―この話を「トム・ソーヤーの冒険」になぞらえるなら、マホニーはトム・ソーヤーで、“僕”はハックルベリー・フィンである。

注)固有名詞や一人称の表記及び引用した翻訳文は主に柳瀬訳に拠った。あくまで便宜的なもので他意はありません。

ダブリンの市民 (岩波文庫) ジェイムズ・ジョイス 著・結城英雄 翻訳
ダブリンの人びと (ちくま文庫) ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
ダブリナーズ (新潮文庫) ジェイムズ・ジョイス著・柳瀬尚紀 翻訳
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