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2010年7月7日更新

ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」"Dubliners"について―8―
“A Little Cloud”「小さな雲」

小説「ダブリンの市民」/ジェイムズ・ジョイス著・結城英雄 翻訳
小説「ダブリンの人びと」/ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
小説「ダブリナーズ」/ジェイムズ・ジョイス 著・柳瀬尚紀 翻訳
〜「小さな雲」


『ギャラハーは何故、葉巻を取り出したのか?』


 「小さな雲」とは風に漂い流されるちっぽけな自我のことである。雲は自分から空に浮かんでいるわけではない。水が陽の光の力で空に吸い上げられて「雲」と名づけられ風の意志で行き先が決まる。運命や自他の意思に翻弄され続ける自我のようである。雲は雨粒となり再び地に降りる。ときに天に舞いときに地を這う。揺れ動く自我はどこへ向かうことになるのだろうか。

【自我の妄想】
 “A Little Cloud”「小さな雲」は “Little Chandler”「ちびのチャンドラー」となって我々の前に現れた。 8年ぶりに友人と再会することになったチャンドラーが、8年前を振り返りながらまだ見ぬ友の勇ましく変容したイメージを造り上げ、夢想にふけっている。すると普段抑えられていた彼の自我が目覚めはじめる。出世した友人は彼の心の中に輝く太陽である。その陽の光を浴びてチャンドラーの自我は高揚し、水蒸気のごとく上昇して「小さな雲」となり舞い上がり始めたのだ。―彼の容貌は「手は白くて小さく」「きゃしゃで」「爪の白い半月」「白い歯並び」云々と“白くて小さい”「小さな雲」のイメージが強調されている。― 彼の視線は日常から離れて、上空から注がれる日の輝きを帯びたものとなる。―「その輝きは、ベンチでうたた寝をしているだらしない格好の子守女たちやよぼよぼの老人たちの上に、心地よい金粉を降り注いでいる」彼は「晩秋の日没の輝き」のような穏やかな眼差しで人生を見つめ直してみる。すると突然―「彼は悲しくなった」―「運命に逆らってあがいても無駄だという気がする」まばゆい陽の光は「あらゆる人たちの上に」降り注がれるが誰しもが友のように成功するわけではない。自分の自我がたとえちっぽけな「小さな雲」となって舞い上がったとしても結局は風に流されるばかりなのだ。行きたいところに行けるとは限らない。いずれ元に押し戻されるか、雨粒となって地上に落下していくに違いない、と感じるのだった。―「これは長い年月が彼に残してくれた知恵の重荷なのだ」 しかし彼にはひとときでもその重荷から解放させてくれる世界がある。―「彼は自宅の書棚に並ぶ詩集を思い出した」―彼は詩を抱く心を持っていたのだろうか――「本棚から一冊を抜き出して妻に何かを読んで聞かせたいという気にさせられることがあった。けれどそのつど恥ずかしさが彼を引き留めた。したがってどの本も書棚におさまったままだった。時おり詩の数行をくり返し口ずさむことがあって、これが彼の慰めだった」―詩の心は彼の中にあるわけではない。それは他人のこしらえた「詩集」に依存している世界なのだ。彼はそれを自分の心情のように妻に読み聞かせる愚かな姿を想像して気恥ずかしく感じたのである。本当に詩の心があればそんなことを恥じる必要もないし、むしろ他人の書いた詩を口ずさむだけでは慰めにならないはずだ。詩の心が慰められるのはそれが言葉となって湧き出した瞬間だけである。
 チャンドラーが帰宅の時間をむかえ職場を離れて「中世風アーチ門」をくぐり街に出るともはや昼のうちの飛翔した気分はすっかりさめてくる。―「黄金の日没が弱まりかけており、空気は身を切るようになっていった」日の輝きの中で夢想にふけっているときには「砂利道を金切り声で駆けまわる子供たち」といったような活き活きとした姿や人びとがうたた寝をするのどかな姿をとらえていたのに、通りに出ると「あかで汚れた子供」「二十日ねずみ」「微小で害虫のような生き物」など、蔑みの対象を探す目線に変わってしまっている。―もはや「過去を思い出して感傷にふけることはなかった」―チャンドラーは一瞬高みに立った気分に浸り、ダブリンの街と、人びとと、自分の過去を達観したような境地に酔う。「というのも彼の心が目前の喜びでいっぱいだったから」―異国で出世した友の成功と自分を重ね合わせてみて密やかな期待と優越感が徐々に膨らみ始めているのだ。“ちっぽけな自我”=「小さな雲」のつぶやきである。 しかしこの「小さな雲」は現実から吹き寄せられる風に翻弄される。チャンドラーは、友と会う華やかで、派手な店の有様を思い起こすとたちまち怖じ気づくのだった。そこはいわば未知の世界に通じる窓である。窓の向うの遥か彼方にどんなふうに広がっているのか。チャンドラーは「恐怖」すら覚える。そこに近づくと「足元のまわりに広がる沈黙が彼を悩ませ、黙ってさすらう人びとの姿が彼を悩ませた。時どき、ふっと洩れてくる低い笑い声が彼を震えさせた、まるで木の葉のように」―異国に渡っても自分は無視されるか、小さな失笑をかうだけかもしれない。彼の心は空高くにはあらず、実際には風に揺らぐ「木の葉」のごとくに木の枝に結ばれ地上に留まったままなのであった。
 彼の夢想は行き詰まった。しかし「木の葉」の揺らぎとともに彼の中に新たなストーリーが芽生えた。「彼は右に曲がってケイペル通りへ向かった」―通りはリフィ川を渡るグラタン橋に真直ぐ通じている。新たな旅の始まりである。チャンドラーはギャラハーに “変身”してもう一度人生をやり直してみることにする。それは彼の心の中の一人芝居である。彼はまず“役づくり”から始めてみる。
 チャンドラーが「過去を振り返ってみると」ギャラハーの「なかに大成する兆しがいろいろあったのに思い当たる」 “俺は、ちょっぴりワルで大胆不敵!大酒飲みで借金まみれになって逃げた先のロンドンで大成功!”調子にのったチャンドラーは心の中でギャラハーの決めセリフを反芻してみる。「ハーフ・タイムだぜ、なあ、みんな、と彼はのんきそうに言ったものだ。血の巡りをよくする、おれの思考帽子はどこだい?」(ト書きの念の入った妄想である)彼は初めてセリフを口にする役者のように緊張した心持ちで頬も赤らむ。にわか役者の彼がセリフを語る誇らしい気分が盛り上がった興奮と気恥ずかしさから赤面しているのだ。この気恥ずかしさは、本棚の詩集をまるで自分の作品のように妻に読んで聞かせることを想像したときと同質のものである。それでも彼の心はすっかりギャラハーと同化した。「生まれてはじめて、すれちがう人びとよりも自分が偉いという気分になった」―ギャラハーという人格を超えてひたすら“成功”の二文字に浮かれ始めていったわけだ。役を逸脱して彼の中で大胆さのみが暴走する。「疑問の余地はない、成功したければ出て行くしかないというのは。ダブリンにいてはなにもできない」―ダブリンを捨てロンドンに渡ったかのような気分でグラタン橋を渡り川を超える。妄想の中で次第にギャラハーの成功が彼の成功へとすり替えられて行く。彼の自我が高く、高く、舞い上がる瞬間である。シナリオはエスカレートしていき遂には、ロンドンで詩人として名声を得た後の批評にまで想いをはせ、皮肉にもアイルランド系を売りにすることさえ考えつくのだった。 
 再び「雲」となって宙に浮かぶ心が空想の中で飛んでいるのはもはや異国の空である。まだ見ぬ異国の地での空虚な願望に過ぎないのだが、彼は興奮のあまり待ち合わせの店を通り過ぎてしまう。戻って来て店のドアを前にしても彼の妄想と興奮は止んでいない。まるで異国の華やかなステージに立つ前の境地である。やっと心を決めていざ中へ―「光と騒音が彼を戸口にしばらく押し留めた。あたりを見まわしてみたが、たくさんの赤や緑のワイングラスがきらめき、その輝きで目がくらんだ。バーは満員のように彼には思われ、その客たちが好奇のまなざしで彼を観察しているような気がした」―ほとんどスポットライトを浴びて満員盛況の舞台にたつ千両役者のようである。「すばやく左右にちらっと目をやったが(大事な用で来たのだと見せるために、眉を少しひそめたが)」―彼はまだ演技をつづけている。今度もト書き付!「しかし、目がはっきりしてくると、だれも振り向いて見ている者などいないのがわかった」―彼の描いた長い長いフィクション“自我の妄想”もここまでである。“本物”のギャラハーが現れたからである。空想から現実に引き戻されたのだ。

【自我の浄罪】
 チャンドラーは8年ぶりに再会した“本物”のギャラハーにかなり幻滅を感じることになる。チャンドラー製の偽ギャラハーとは勝手がちがうのだ。のっけから一方的にまくしたてられ押し付けがましくどうも鼻持ちならなく思える。外見も老けこんでいて草臥れた感じだ。そのうえプロテスタントぶってオレンジ色のネクタイなんか締めている。彼にはギャラハーがロンドン帰りを無理して鼻にかけているようにみえている。「ギャラハーは友情を笠に着て彼に恩をきせているにすぎない、まさしく里帰りによってアイルランドに恩をきせてるように」としかチャンドラーには理解できないのだ。実はこれは大きな誤謬である。
 こんなにもチャンドラーの胸を騒がせたギャラハーはそもそも何の為にダブリンに戻って来たのだろうか。ギャラハーの言葉に耳をすましてみよう。―「おれがあんたにこの前会ってから、どうやって荒波に揉まれてきたんだい?いやもう、おれたちって年とっていくなあ!おれを見てどこか老けたところ目につくかい――えっどう?お頭に白髪が交じってるとか、薄くなっているとかさ――どう?」―まずはギャラハーからの質問攻めである。さかんに同意のようなものを求めている。彼は人生の様々な刻苦の共有をチャンドラーに期待しているのだ。いわば同病相憐れみたいというわけだ。「友情を笠に着て彼に恩をきせ」に来たわけでも、出世を自慢しに来たわけでもない。ギャラハーもまた人生に疲れ、故郷と旧友に潤いと癒しを求めにきたのである。
 実際、生気がなく不健康な様相のギャラハーはつづけていう「なあおい、この数日間ぐらい。おれ、べらぼうにうれしいんだよ、ぶちあげた話、故国に戻ったのが。体にいいんだよ。ちょっとした休暇って。すっげえ気が楽なんだ。大好きなだらしのないダブリンにふたたび上陸してからっていうものは……」―ギャラハーの小さな自我は海の向うで揉まれて疲れているのだ。ギャラハーこそまさしく「小さな雲」だったのである。風にのって異国に渡り今また風に押し戻されてきているところだ。彼は新たな風を得るべく故郷で英気を養っているのだ。それでは、なぜ彼の方からチャンドラーと二人だけで会う気になったのだろうか。
 ギャラハーは、チャンドラーが「昔遊んだうちの何人か」や自分とは異質な人間であると見抜いている。それは単に堅物ということだけではないはずだ。彼はチャンドラーの中にくすぶる「詩人の魂」をかかえた自我を感じていたに違いない。自分にはないチャンドラーの「詩人の魂」が8年間でどれほどに実っているか。“同胞の優れた詩才に触れられたらどんなにか勇気づけられるだろう”と。皮肉にもギャラハーがチャンドラーに期待していたものはチャンドラー自身が自分に期待していたものと同じであったわけだ。そしてギャラハーもチャンドラー同様すぐに相手に幻滅する―「こうしてみると、あんた、ちっとも変わっちゃいないな。まったく同じまんまのまじめ人間だよ、…(中略)…ちょっとばかり世のなかを見てまわってみたいって思わないのか。どこにも行ったことないのか。ちょっとした旅行にも?」―ギャラハーはチャンドラーの中の「詩人の魂」が「信心深い堅物」の檻の閉じこめられているように感じたのだ。チャンドラーが「幼い希望」から一歩も出ていないことを見抜いたのである。
 ギャラハーはチャンドラーにパリにでも行ったらどうだと勧められる。チャンドラーは、パリといえば「美しい」「不道徳」というように「うわさ」(単なる情報)から得た型にはまった言葉にとらえられている。ギャラハーはチャンドラーの反応にイラだつようにいった「パリの生活なんだよ、肝心なのは。いやあ、パリほどの都会はないよ、陽気で、活気があって、興奮させてくれるのは…」―人間の生の営みに根ざした感覚こそ「詩人の魂」といえる。チャンドラーに「詩的瞬間が自分におとずれた」のは「貧しくいじけた家々を哀れんだ」ときであった。彼自身が貧しい生活を送ったわけではない。あるいはそのひとつひとつをつぶさに見て回ったわけでもない。彼はこのとき心に思い浮かんだ擬人的な比喩を自分で悦にいっているだけなのである。チャンドラーに今あるのは何冊かの詩集と「もの悲しさ」という“気分”に過ぎない。
 しかしギャラハーは決してチャンドラーの「詩人の魂」を否定したわけではない。チャンドラーの「感じやすい性質」にむしろ期待しているのだ。「みんな人生って楽しむものだと信じきってる」パリやロンドンで人間が本音のままに生きる生活がチャンドラーの「目を見開いてくれるだろう」とギャラハーは期待しているのだ。チャンドラーはしかしそれを「不道徳な都市」といって退けてしまう。
 ここでギャラハーは「葉巻入れを取り出」す。そして火をつけて煙りの“雲”に身を隠した。二人とも煙りの“雲”の中である。ギャラハーはチャンドラーを自分の「小さな雲」中に“招待”したのである。しばらくしてチャンドラーの前に再び姿を現したギャラハーは自分が体験した実際の“不道徳”の数々を雲の隙間からチャンドラーに示してみせるのだった。“あんたが頭の中で考えてるのは不道徳なんていえる代物ではない。そんなのは単なる‘風紀問題’だよ。‘本物の不道徳’をたっぷりと拝ませてやろうじゃないの”といった感じで自分が異国で見聞きした、退廃と悪徳をおびた不道徳の実例を事細かに物語るのであった。最後にギャラハーはこう締めくくる「おれたちが今こうしているのは、そんなことにとんと縁がない、のろくさ昔ながら進むダブリンだよな」―チャンドラーを乗せたギャラハーの「小さな雲」の“遊覧飛行”は終わり再びダブリンに戻って来たのだ。彼はこの発言で決してダブリンを蔑んでいるわけではない。―「ここへやって来ると気が休まるんだよ、実は」―日々不道徳の中に塗れているギャラハーにとってダブリンは絶好の休息地なのだ。故国に「人間性」の回復を求めて“一時”戻ってきたのだ。
 ギャラハーが煙りの“雲”の中でこっそりなければ言えない“不道徳”とは何だろうか。それは“不道徳”な“同性愛”である。愛情を欠いた退廃主義的な快楽遊戯としてのそれである。「へんちくりんな世の中だぜ。不道徳もいいところだ!いろんな実例を聞いているよ――いや、おれってなに言ってるんだ?――身をもって知ってるんだ、それらを、いろんな実例をだよ……不道徳の……」―彼はモグモグとした口調でカミングアウトしている。それは本当の同性愛者がむしろ唾棄するようなものを指すのであろう。パリで最初の体験をしたに違いない―「あそこの連中って、すごくアイルランドびいきなんだよ。おれがアイルランドの出だと聞いたら、もうおれを食べかねなかったよ、まったく」―実際そのあと“食べられた”かもしれない。(少なくともイギリスの共通の敵である国アイルランドへの共感の意味ばかりではなかったはずだ)ギャラハーはそのような“不道徳”に染まった自分にうんざりし疲れきってしまったのだ。故郷に戻って仲間とピュアな時を過ごしてその“罪”を清めたかったのである。だからこそチャンドラーの「信心深い」までにピュアにみえた「詩人の魂」は必要だったのである。ギャラハーの自我を翻弄し続けた異国の“不道徳”の退廃ぶり、人間性を傷つけるその“惨状”を聞かせたのもそのためである。それだけにチャンドラーには“健全”な「情愛」による詩人としての崇高な目覚めを期待していたのだ。
 チャンドラーはギャラハーのそんな想いに気付くはずもなく「さぞやきみにはここは退屈にちがいないだろうな」とまだ羨みに心が振り回されたままである。それでもギャラハーは故国に帰った喜びを語ったあと「ところで、話してくれよあんのことを」と問い返す。「あんた……結婚の至福って喜びを味わったってな」―ギャラハーはとにもかくにも“健全”な人生の喜びの中にいることを愛でる。“浄罪”を求めるギャラハーにとって彼には是非そうあってもらわなければ困るのだ。―「うん、と彼は言った」―嘘である。だから顔を赤らめたのだ。彼にとって結婚は至福ではなかった。チャンドラーの“芝居”がまた始まったわけだ。今度のは自分とギャラハーに対しての“芝居”である。ギャラハーはその“嘘”にお祝いを述べ握手を求める「さて、トミー、と彼が言った、あんたと奥方が人生のあらゆる喜びを味わい、それに相棒よ、たんまり金がたまりますように」相手の幸福を心から願うことで己の自我が犯した“罪”を購っているつもりなのだ。それはいつまでも自分の故国で浄罪を助ける良心の友でいて欲しいという祈りの言葉なのである「おれがあんたを撃ち殺すまでは絶対に死なないように。これが親友の、旧友からのお願いだぜ」
 ギャラハーは引き続き子供のことを尋ねる。家庭の幸福が順調に育まれていることを願って。チャンドラーはまたもや顔を赤らめながら男の子だと告げたあと、どぎまぎしながらさらに“芝居”を打つ「ひと晩ぼくらの家に来てくれないかなあ」―ギャラハーの方から結婚生活の幸福についてアレコレと持ち上げてくれるので、唯一優位に立てる場所を思いついたのである。チャンドラーの自我がざわつきだしたのだ。
 しかしギャラハーにとってチャンドラーはすでに用済みの存在である。“さあ‘お清め’は済んだ、また遊ぼう”―既に「頭の切れる若者」も一人連れて来ている。何とかチャンドラーを振り切るしかない。乾杯でお開きといきたいところだ。一方チャンドラーからすれば“芝居”の気分はまだ続いている。“仕向けたのはお前の方じゃないか”となる「ギャラハーの強い葉巻が彼の心を乱してしまった」―ギャラハーの自我のこしらえた「小さな雲」に乗せられて“その気になって散々興奮させられちまったじゃないかよ”―ひとときの「冒険が彼の感じやすい性質の均衡状態を狂わせた」―本当ならむしろ均衡状態を狂わせたときにこそ詩は生まれるのだが、彼の心は妬みに絡みとられてしまっている。つまるところ「自分だって男だと主張したい」ということにチャンドラーのちっぽけな自我は追い込まれてしまったのである。彼はギャラハーに復讐の一撃をみまわせる「きみが来年くるときには、ぼくは光栄にもイグネイシャス・ギャラファーご夫妻の長寿と幸福をお祈り申し上げる、ってことになるかもしれないね」―むろん社交辞令ではない、自分が先んじて結婚生活を営んでいることを誇示しているつもりなのだ。当然ギャラハーは「そういうとんでもねえ気づかいは御無用だよ」と否定する。彼自身は家庭生活の幸福を願っているわけではない。それでもチャンドラーは余計意地になって攻撃し続ける。彼の自我が初めて自分の外へとなりふりかまわず飛び出したのだ。チャンドラーは、ギャラハーだって「相手の娘が見つかれば」結婚するに決まっていると語調を強めて主張する。つまりは相手なんか見つかりっこないと見下してかかったわけだ。「ちびのチャンドラー」渾身の弱々しいパンチがついに繰り出されたのである。それがために清らかに澄んだ心を取り戻したつもりで静まっていたギャラハーの自我に火をつけてしまったのだ。
 ギャラハーからすれば自分の価値観を押し付けて来たのはむしろチャンドラーの方である。ギャラハーは「俺は金と結婚する」と言っている。これは結婚そのものを否定している発言ともいえる。だから相手なんか「待たせておけばいい」し、ついには「一人の女に縛られるなんて、おれには考えられない」とまで言ってしまうのだった。「彼は口で味わうまねをして、しかめっ面をした」―ついにギャラハーまでがチャンドラーの“芝居”に巻き込まれてしまったようだ。そして(一人の女に縛られる生活なんて)「気が抜けてくるにちがいない」というギャラハーの捨てセリフにより、チャンドラーの“芝居”は悲惨な幕を閉じることになったわけだ。チャンドラーの自我は地に落ち、ギャラハーの浄罪も最後には失敗に終る。これは相容れないふたつの自我が交わるところでは避けられない結末であったのだ。

【自我の再生】
 打ちひしがれたチャンドラーが帰った家はギャラハーの“予言”どおり、まさしく気の抜けた状態だった。小さなランプについた「白い磁気の笠」は家の中に幽閉され小さく収まっている「小さな雲」を象徴している。ランプが照らし出しているのは青いブラウスを着た妻の写真だ。チャンドラーは写真を観て「どうして彼は写真の目と結婚してしまったのだろうか」という。「そこにはなんの情熱もなく、なんの歓喜もない」―彼の期待はお門違いである。彼女は娼婦ではない、妻なのだ。目も顔もきれいで、倹約家で、貞淑であること以上の何を望もうというのであろうか(妻に情熱と歓喜があったらむしろ危険なことだ)―「彼が写真の目を冷ややかにのぞき込むと、その目も冷ややかに見返した」―彼女の目はチャンドラーの冷ややかな目に応えているだけなのである。まさしくチャンドラーの勝手な思い込みである。青いブラウスはチャンドラーが買い与えたもので、彼はそのブラウスによって彼が妻に“女性らしさ”と感じるところのものを形ばかりに押し付けようとしたのである。チャンドラーは「ギャラハーのように勇ましく生きよう」とすることができないのをともかく彼の「小さな家」のせいにしたいと思っているだけなのだ。「ロンドンに彼は行けるだろうか?家具の支払いがまだ残っているのに。本を一冊書いて出版することさえできたら、そしたら彼に道が開けるかもしれない」―「道」とはどこに通じる道であろうか?ロンドンか。でも本を出版することができたらロンドンに行く必要はなくなるはずだ。家に残って家具の支払いを済ませながらまた本を出版すればいいではないか。彼は詩が書きたいのか、本を出版したいのか、ロンドンに行きたいのか、それとも成功の気分に浸りたいのか。―そのどれもである。「小さな雲」が彷徨っているだけなのだ。自我がその行き先を求め迷い続けているだけなのである。
 彼の迷いは極まり右手に子供、左手に詩集というどっちつかずの中途半端な状態に陥る。これは詩と生活を両天秤にかけた危うい心理状態を象徴している。彼は手にしたバイロンの詩を読む―「風は和らぎ夕闇は静かなり、そよ風さえ木立をさまよわず、」悲しい調べはチャンドラーが昼間のうちに静かな風景を眺めやりながら人生の憂愁に浸っていたときに対応している。彼がちょうどあのとき詩集のことを思い浮かべたのはこの詩が念頭にあったのだ。まさに借り物の「もの悲しさ」であったわけだ。詩は次に「われ立ち戻ってマーガレットの墓を眺め、わがいとしい亡骸の上に花をまき散らすとき。」とつづく―亡骸となったマーガレットとはチャンドラーの妻のことである。彼にとって妻は生活に疲れた「亡骸」にしか見えない。生の彼女と向き合いもせず葬り去りたいという彼の欲求を満たす“我が意を得たり”な詩なのである。「墓」はチャンドラーの家であり「花」はチャンドラーが買ったブラウスのことである。妻をブラウスで飾り立てることで女性としての体裁を整えて「小さな家」という墓に封じ込め自分は意気揚々とロンドンの空に飛翔したいといったような願望がそこには潜んでいるのだ。妻を生きながら葬る墓に飾る花であるからブラウスを買うことは「苦痛」であり罪を犯すときの「はらはらどきどき」もあったわけである。「墓」は「グラタン橋」を渡るときに見やった川下の「貧しくいじけた家々」に対応している。これもやはり借り物の着想だったことがわかる。だから彼がそれを韻文にしても彼の魂とは縁がないものだ。
 ところがここでチャンドラーに重大な転機が訪れる。天秤が片方に大きく傾いたのだ。―「子供が目を覚まして泣き出した」―それはチャンドラーの覚醒の始まりをも意味する。「詩集」という過去の虚構とチャンドラーが“芝居”で演じてきた仮の人生を離れ、「子供」という生きた“未来”へ向うチャンドラー再生の“産声”が始まったのである。産みの苦しみが彼を襲う。苦しみに抗うように詩のつづきを読み始める―「この狭苦しい墓舎の彼女の骸は横たわる、その骸はかつては……」―むろん「狭苦しい墓舎」はチャンドラーの「小さな家」で「彼女の骸」は現在の彼の目に映る妻の姿だ。だがここでチャンドラーは突然思い出しかけたのだ―「その骸はかつては……」―チャンドラーがかつては妻の目に情熱を感じていたことを。彼の心は大きく疼く―「だめだ。読めない」―彼は詩を読むことをついに止める。本を閉じて子供と向き合う。泣き止まない子供との格闘は自分と自分の分身である子供との壮絶な“対話”である。「泣き止め!」は自分自身にも投じた言葉だ。彼の中の真の「詩人の魂」が震え始めている。「ぎょっとして子供を胸に抱き寄せた。もし死んだりしたら!」―このとき彼はかつてない心の震えを感じたはずだ。
「ドアが開き、一人の若い女があえぎながら、駆け込んできた」母親が戻って来た。彼女はチャンドラーを激しく責め立てる。「ちびのチャンドラーはちょっとの間彼女の視線をうけとめたが、その目に憎しみが宿っているのに出くわすと彼の心臓が縮かんだ」―チャンドラーが他者の言葉に「心臓が縮かんだ」ほどむき出しの魂で直に触れた瞬間である。「何でもないんだ。……これが……これが泣き出して。どうにもできなくて」―彼のモラトリアムと主体性の無さが一気に吹き出した言葉だ。彼の心の膿みが飛び散ったのである。母親の方はもはや「彼には目もくれず」に「子供を両腕にしっかりと抱きしめ」たのだ。まさに“聖母の出現”である。「あたしのおちびちゃん!」“My little man!”に始まる母のつぶやきはチャンドラーにはいくら望んでも決して唱えることのできない“魂の詩”であったのだ。チャンドラーはここに至って覚醒し「恥ずかしくて自分の頬が真っ赤になるのを感じ、後ずさりしてランプの明かりの外に身を引いた」―「詩人と魂」などと軽々しくしたり顔でつぶやいていた己の自我の卑小さを恥じたのだ。「明かりの外」にあるのは例の「白い磁気の笠」=「小さな雲」である。彼はまたもや自分のちっぽけな自我に引きこもりかける。「耳を傾けていると、子供の泣きじゃくりの発作がだんだんと弱まっていった」―しかし彼の心は外界に耳を澄まし始めていた―「すると、悔恨の涙が彼の目に浮かんで来た」チャンドラーの真の覚醒の瞬間である。彼の涙は「小さな雲」から落ちる雨粒だ。「彼の目に浮かんで来た」涙はこれから本当に雨粒となり地に降るのであろうか。つまりは、魂のつぶやきが詩となり彼の自我の外へと解放されるのか。そしてそれがやがて地に染み渡り陽の光の力で再び空高く上昇することになるかどうか、我々にはわからない。

―チャンドラーの流した「悔恨の涙」は子供の涙と対応する。チャンドラーの家全体が「小さな雲」でありそこから流れた大量の雨粒が子供の涙なのである。この場合はチャンドラーの家はアイルランドのことで子供はアイルランドの未来と読むことができる。
―チャンドラーの妻アニーは最後に“聖母”となって現れる。わざわざ“a young woman”「一人の若い女」と表記しているし、ブラウスの青は聖母マリアの服の色である。チャンドラーも潜在的にはそれを望んでいたことが暗示されているのだ。だから妻の“詩”はチャンドラーにも向けられたものである…“My little man!”。子供はチャンドラーの分身であり未来である。彼らの魂はこのときひとつとなりいわば一瞬だけ“三位一体”となったわけだ。

―この話はダンテの『神曲』に擬することが可能である。中世末期(ルネサンス初期)の『神曲』を現代(当時=1906年頃)の現世に舞台を映したリメイク版といってもよいくらいだ。チャンドラーがギャラハーに実際に出会うまで(私の勝手に名付けたところの【自我の妄想】)が《地獄篇》にあたり、彼のくぐる「中世風アーチ門」は“地獄門”でグラタン橋の架かるリフィ川は地獄に通ずる“アケローン川”といったところだ。ギャラハーとの宴(同【自我の浄罪】)は《煉獄篇》。チャンドラーが家に帰ってから(同【自我の再生】)が《天国篇》である。
 チャンドラーはダンテ役、ギャラハーはウェルギリウス役、妻アニーがベアトリーチェ役である。細かく一致するところも多々あるので本気で取り組むとけっこう奥深そうである。もちろんひねた展開で一筋縄ではいかないが。

 これは"Dubliners"「成年期」編の最初の作品である。直接的には先行する「下宿屋」の続編である。「下宿屋」では若い青年であったひとりの“自我”が成年期をむかえ家庭を持ったというわけだ。チャンドラーは、「下宿屋」でいえば女将の娘と結婚する下宿人ドーラン氏にあたる。友人ギャラハーは、女将の息子ジャック。チャンドラーの妻アニーはドーラン氏と結婚することになりそうだった女将の娘ポリーにあたる。ドーラン氏(チャンドラー)は相変わらずさえない勤め人のままだ。ジャック(ギャラハー)は持ち前の無頼漢ぶりが功を奏してロンドンの新聞界で大暴れしている感じ。ポリー(アニー)は女将の血を受け継いだ猛烈な吝嗇家であり、案の定、家庭内で強権を振るい始めた、といった感じである。もちろんチャンドラーという“自我”は第1作品「姉妹」の「ぼく」に始まり様々に変異し成長してきたものだ。("Dubliners"には全体でひとつの“教養小説”であるかのようなパロディが潜んでいる)そして綿々と受け継がれているジョイスの化身でもある。ギャラハーは「ある出会い」のジョー・ディロンや「イーヴリン」のフランク、「二人の伊達男」のコーリーなど、主人公と対峙する“できすぎ君”の系譜を踏んでいる。この人格は、主人公の成長段階においては憧れというより自我の延長(願望…逃避願望、変身願望)であったりした。それが徐々に自我を離れた他者(ライバル)となって主人公に合わせるようにいっしょに成長していく。主人公の鏡像によって自己アイデンテティの確立過程がより鮮明になるのだ。常に主人公の自我のアンチテーゼとして現れるが、結局は同質の者であることがその後必ず露呈する。作者によってそういうふうに運命づけられているのだ。―なぜなら同じ"Dubliners"だから。 アニーはチャンドラーの妻であるから下宿屋の娘ポリーのその後(出産後)にあたり、下宿屋の女将の化身でもある。結婚相手は究極の絶対的“他者”として人生に現れる(立ちはだかる!?)ものだ。「下宿屋」のドーラン氏は「アラビー」の主人公の甘く抽象的な女性観、自己のイメージから離脱して生の“女”を身にしみて感じ取る。逆立ちしてもマネのできない“他者”としてときに自我を忘れて愛情を注ぎ、あるいは心から憎むことによって真に生きることの実感に触れ始めたのである。さて結婚後のこの3人はどうなったであろうか。ドーラン氏はチャンドラーとなってダブリンで平凡な毎日を送っていた。数々の記憶を胸の奥に秘めて―この話はそうした時点から始まっているのだ。

注)固有名詞や一人称の表記及び引用した翻訳文は主に米本訳に拠った。あくまで便宜的なもので他意はありません。 
注)原文はPenguin Popular Classicsに拠る。

ダブリンの市民 (岩波文庫) ジェイムズ・ジョイス 著・結城英雄 翻訳
ダブリンの人びと (ちくま文庫) ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
ダブリナーズ (新潮文庫) ジェイムズ・ジョイス著・柳瀬尚紀 翻訳
Dubliners (Penguin Popular Classics) ペーバーバック