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 2010年9月29日更新

「プリズナーNo.6(原題:the Prisoner)」第17話 “終結”
原題:FALL OUT

2010年9月25日スーパー!ドラマTVにて鑑賞


『神は宇宙に逃げたのか?』


 1967年にイギリスで製作された連続テレビドラマ「プリズナーNo.6(原題:the Prisoner)」の再放送が17話で完結した。最終回 “終結” では、第1回から積み重ねられてきた謎のほぼすべてが解き明かされることとなった。
 このドラマが、スパイサスペンスの皮を被ったサイエンスフィクションであり、その根底には「人類と神との対話」が潜んでいるという仕組みであった事が最後になって明かされたのだ。
 実際の時間軸に沿ってストーリーを想像して組み立てると以下のようになる。

 【事の顛末】
 イギリスの各地で、各界の重要人物を含めた多数の市民が、ある日突然、行方不明になる事態が起こる。イギリス政府が極秘裏にリサーチしたところ、彼ら行方不明者の間にある共通した事情があることがわかる。それは、彼らがそれぞれ何かの特殊な情報に通じていて、その情報を抱えたまま辞職したり、引退したり、移動したりして現場を離れた人間であるということだった。
 イギリス政府は、諜報機関に原因の究明と行方不明者の救出を命じた。諜報機関は、行方不明時の状況を分析して諜報部員の身を同じような状況に置いた。やがてその中の一人が行方不明となる。最終回に登場するNo.48(アレクシス・カナー)である。
 No.48は〈村〉と呼ばれる地図にない場所に拉致されたのだ。〈村〉には各地から拉致された行方不明者が洗脳されて暮らしていた。〈村〉の支配者はNo.1と呼ばれ、住民の前に姿を見せることはない。No.1は、実は宇宙人であり地球を支配するためにやってきたのだった。彼は、重要な情報を持つ地球人を拉致して得たその情報を収集分析して、地球支配の為に役立てようとしていたのだ。
 〈村〉全体は、白い球体の力で“結界”のように仕切られ、そこから出ることが出来ないようになっている。ただひとつの脱出方法は、ヘリコプターで空から〈村〉を出ることである。それ以外は、〈村〉側の意志に寄らない限り人間の力で脱出することは不可能なのである。神に支配される冥界のようなものである。人間がその自由意志で冥界と現世を行き来できないのと同様だ。
 村人全員が従順なわけではない。彼らの中には、反抗や逃亡を企てたりする者も少なからず存在する。その企てが発覚するとただちに捕えられ、再びより強いレベルの洗脳が施される。
 それでも反抗をやめない者が現れた場合には、むしろ〈村〉にとってはかえって貴重な存在となる。強い意志を持ち、リーダーたる資格のある可能性があるからだ。人類を実行支配する為には、人間の欲望をコントロールできる人間自身の持つ強い意志の力が必要なのだ。
 No.1は、反抗する者の中から意志の強い者を懐柔してNo.2に指名し、〈村〉を直接支配させた。No.2自身はNo.1の単なる身代わりであり“リーダー候補”ではない。No.2は、あくまで“リーダー”を見出すための仲立ちなのである。そして、見出された者も“リーダー”になれるわけではない。彼はNo.1によって心の憶測まで徹底的に分析され、“リーダー”たる資格のあることを確信したあかつきには、No.1はその身体的、人格的特長をコピーして完全に入れ替え可能な姿となる。そうなると、もはやオリジナルは不要となる。
 No.2には高度の支配力が要求され、些細な失敗でも解任される。諜報機関から派遣潜入して、その難しいNo.2の地位についたのが第2話「ビッグベンの鐘」 で登場し、第16話「最後の対決」で復活したNo.2(レオ・マッカーン)である。彼は、一度は脱出に成功したNo.48から予め情報を仕入れていたというアドバンテージも持っていた。No.1の信頼を得易い立場にいたわけである。
 こうして着々と〈村〉に対抗するべく諜報機関が準備を整えた上で、満を持して送り込んだのがNo.6(パトリック・マッグーハン)だったのだ。No.6は不可解な辞職の仕方をすることで、重要な情報を保持しているがごとくに見せかけてわざと〈村〉側の関心を惹いて拉致させ潜入を試みたのである。その作戦は見事に成功した。…ごとくに見えた。
 実は、〈村〉の側では、No.2(レオ・マッカーン)とNo.6、それにNo.48がスパイであることは承知していたのである。それでは、なぜ彼らを放置したのか。それは、彼らの高い能力を見込んで“リーダー”の候補に選んだからである。
 彼らは、いわば神に選ばれた“預言者”のようなものである。
 一方、No.6たちの側でもその動静には気付いていた。No.6の側近のバトラー(アンジェロ・マスキャット)を早い段階で潜入させて、予め様々な情報を入手し、潜入後も側面から秘かにサポートしていたのだ。その働きは、最終回のラストになって見事なかたちで明らかにされた。一言もしゃべらず目立たない存在であった彼の活躍なくして、宇宙人撃退作戦は成功しなかったのである。
 まさにNo.1がNo.6にとってかわり入れ替わろうとしたその瞬間、彼の“魂”を封じ込めようとした球をNo.6は床に叩き付けて粉々にした。No.6はさらに、〈村〉全体をコントロールする装置をも破壊する。もはや宇宙人の計画は続行不可能なものとなった。
 宇宙人の独裁者No.1は、No.6の人格を乗っ取った上での地球征服を企んだ計画を阻止され、生き残りを引き連れてロケットで宇宙に脱出した。ロケットに乗り遅れて、残された部下たちは、No.6たちに抹殺された。ロケットの発射とともに白い球体の“結界”も解かれて、〈村〉に拉致されていた人びとも洗脳を解かれていっせいに脱出した。彼らは洗脳中の記憶が自然と消えるよう心理的に仕組まれていた。結局、この事実を知るのはNo.6たち4人だけであり、地球に住むほとんどの人間の気付かぬ間に宇宙からの侵略から免れたこととなったのだ。

 【神の地からの解放】
 〈村〉を神話的世界に捉え直してみると、いっそう奥行きのある壮大なテーマを模索する楽しみが与えられることになる。根底にあるのは、不可知論の観点に立った宗教批判である。No.6は、〈村〉において様々に擬似的な宗教体験を重ねることで「真に自由な人間」となり旅立っていくことになる。『2001年宇宙の旅』におけるボーマン船長の体験と進化を思わせる。
 No.1は、神に見立てられる。あくまで、人間の想像力の及ぶ範囲においての神である。だから実在をもたず、あえて実体像を与えようとするなら、英雄の姿(No.6)に擬するしかないのだ。
 No.48を裁く会議の裁判官は、神(No.1)を代弁する者である。
 No.48は、一度死んだNo.2の復活が「神(No.1)の力」によってなされたというペテンへの皮肉を込めて、預言者エゼキエルを歌った黒人霊歌“Dry Bones”を歌う。「エゼキエルは枯れた骨をつないだとさ。さあ、神の言葉を聞け!」
 さらにNo.48は、磔にされたキリストを模して腕を広げ「Father(父よ)」というかわりに「Dad(オヤジ! )」と呼びかけた。これは、キリストと神との関係を揶揄するものともとれる。実に大胆である。
 No.2に至っては、復活の奇蹟を遂げた後なのに、まるで理髪店に行った後のような「生まれ変わったような気分だ。」という日常の言葉で済ませていた。さらには、神(No.1)の眼差しを睨み返すことでその存在を相対化し、いわば否定するにまで及んでいる。まさしく痛烈な「宗教批判」そのものである。
 裁判官がNo.48とNo.2に対して、社会(神)への反逆の根拠としてあげられた「無軌道な若さ」と「世俗的権威主義」は元々彼らの人格に兼ね備わっていたものである。それはとりもなおさず、人間性の最後の防波堤ともいえるものなのだ。これがために個々の人格は、無批判に他者(神の存在)を容認して自我を崩壊させることをぎりぎりで免れることができるのである。それは無自覚ながらも彼らの自由を彼ら自身の力で保障する、個人の生きる力の源泉である。
 No.48は、〈村〉から解放されたあと、その「無軌道な若さ」ゆえに、ヒッチハイク(他力)によるしか進路を決める事ができずに道の上を彷徨いふらつき歩く事になる。
 No.2が、りっぱな紳士の身なりとなって見上げたのは、「世俗的権威」の象徴であるウェストミンスター宮殿(英国議会議事堂)であり、ロンドンの空に「ビッグ・ベン」の鐘が誇らしげに響いていた。
 彼らは神の意志からは解放されたが、己の欲望からは自由になれなかった。それでもそれぞれが若さや権威の力で、この世の大地を再びしっかりと踏みしめ始めたわけである。

 【神の地からの逃走】
 No.6だけが「自由意志」を持ち、神に近づいた人間として描かれている。民衆にとって彼の持つ神のごとき「自由意志」は輝ける存在ではあるが、彼らひとりひとりの内部に潜む自我(I=アイ=私)が彼に従う事を拒否せざるを得なくなる。新しい神に祭り上げられたNo.6が福音をたれようとしても、民衆はいっせいに“I,I,I,I!=アイ、アイ、アイ、アイ! ”と叫んでその声を打ち消してしまうのだった。
 No.6はもとより神のごとき絶対者になる意志を持ち合わせていない。絶対者となって後には、もはや彼には「自由意志」がなくなってしまうからだ。
 「神の支配する世界」からNo.48とNo.2や他の住人を解放したあと彼は、再び、自分自身の「自由意志」と「誇り」の象徴である「ロータス7」に乗り、風を切って自由な旅にでる。家政を従者に任せ、馬に股がり旅立つ英雄のようである。彼の前には、新たな英雄譚が待っているに違いないのだった。

 「〈村〉があの世であり、神の支配する世界であった。現世からそこに迷い込んだ人びとが賢人の手によって解放された。」という比喩はしかし、一面的で、実はその逆であるかもしれないのだ。この世と、あの世はネガポジの関係である。今現在、我々が縛られている世界が〈村〉であって、あの世なのかもしれない。
 また、宇宙人は逃げたのでなく、実は目的を完遂したので引き揚げたのかもしれない、という解釈も成り立つ。No.1はすでにNo.6の“魂”をコピーし終わっていた、ということだ。
 あるいは逆にコピー転写されたのはNo.6の方で、No.1によって彼に埋め込まれた“魂”がやがて世界を征服するのかもしれない。No.6がNo.1の目の前で叩き付けて破壊した球は、本当は彼自身の“魂”だったのかもしれないのだ。
 そうなると、彼の旅は人類にとって恐ろしいものになる。




出演:パトリック・マッグーハン、アンジェロ・マスキャット、レオ・マッカーン、アレクシス・カナー
製作総指揮:パトリック・マクグーハン
製作:デイヴィッド・トンブリン
音楽:ロバート・ファーノン、ウィルフレッド・ヨーゼフ
撮影:ブレンダン・J・スタッフォード
提供:エヴリマンフィルムズ、ITC

放映時間各60分
1967年イギリス

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